2026年1月、米AIスタートアップHumans&がプレシード扱いで評価額44.8億ドル、調達額4.8億ドルというラウンドをまとめたとBloombergが報じた。プロダクトもユーザーもこれからの段階で、すでにユニコーンの数倍の評価がつく――かつての常識ではあり得なかった数字である。日本側に目を向けても、AI領域の一部企業には数十億円規模のシードが流れ込む一方、それ以外のシードはむしろ慎重に絞られる傾向が出ている。シード投資の「相場」と呼べるものが、もはや一本の線では描けなくなっている。
現状:シードの中央値と上限が引き離されている
国内シードの一般的な目安は、いまだ調達額500万〜5,000万円、ポストマネー評価額で1〜5億円というレンジに収まる案件が多い。複数のVCや会計事務所が公表する2026年版のガイドラインでも、ポストマネー3〜10億円程度が「普通のシード」の目安として並ぶ。創業から1〜2年、MVPと数値の芽が出ているチームに対して、複数の機関投資家が分けあって入る、というオーソドックスな絵姿である。
ところがAIを軸にしたごく一部の企業については、シードと呼ばれながら一桁多いラウンドが珍しくなくなった。複数の日系VCが2025年を振り返って指摘するのは、調達総額そのものはおおむね横ばいだが、一案件あたりの金額が二極化し、数十億〜400億円規模の大型ラウンドと、数千万円規模のスモールラウンドが同居する一年だったという点である。アーリーからグロースにかけては、企業価値と成長計画を以前より丁寧に問われ、評価額が伸びにくい案件も増えている。
結果として、シードの中央値はそれほど変わらないのに、上限値だけが大きく上に引かれている、というのが2026年Q1時点の素直な見立てになる。「シードで5億円調達」というニュースが目に付きやすいが、その下にはむしろ慎重に値段をつけられている多数の案件が広がっている。投資家の間では、平均値ではなく中央値で語るべきだ、という議論も出始めている。
国内のJ-Startup関連の集計でも、シードラウンドの件数自体は前年並みを維持している一方で、調達額の上位10%が市場全体の3割以上を占めるという偏りが指摘されている。中央値は据え置き、平均値だけが釣り上がる構図であり、平均だけを見ると相場が上がったように錯覚しやすい。実際に資金調達を進める起業家にとっては、中央値や四分位レンジで自社の位置を把握するほうが現実的である。
背景:AI、金利、選別投資という三つの圧力
二極化を後押ししている第一の力はAIである。基盤モデル、エージェント、特定産業向けの垂直AIなど、計算資源と人材コストが極めて高い領域では、シード段階から数十億円の現金がなければ戦えないという事情がある。GPUクラスタの確保、上位エンジニアの採用、年間契約のクラウド費用などが固定費として乗ってくるため、従来の「数千万円で18か月走る」というシード像が成り立たない。
第二は金利環境とLPの空気である。ゼロ金利期にあふれていた資金は、2023年以降の正常化局面でいったん引き締まり、VCの背後にいるLP(年金、事業会社、政府系)はリターン要求を一段引き上げた。VC側は同じ金額を打つにしても、勝てる確率の高そうな案件に厚く、それ以外には薄く、という配分に傾く。これが「選別投資」と呼ばれる動きの正体で、特にシリーズA以降で評価額が伸びにくい一因になっている。
第三は、シードという言葉の定義そのものが揺らいでいることだ。Bloombergは「シードの定義が形骸化している」と表現したが、米国では評価額が10億ドル超のシードラウンドが何件も観測され、もはやかつてのシリーズBに近い。日本のVCもこの空気を吸っており、優良案件に対して「シード」と呼びつつ大きなチケットを切る場面が増えている。シードという同じ単語の中に、別ジャンルの取引が混在し始めている。
事例:日米で広がる温度差
象徴的なのは前述のHumans&だ。プロダクト未公開のままシードを謳って約4.8億ドルを集め、評価額は44.8億ドルに達した。ベンチャー全体の景況が良くなかった2024〜25年を経て、2026年に入ってからこの規模の数字が複数のAIスタートアップで観測されている。Bloombergはこれを受けて、シードとシリーズの境界を引き直す必要があるのではないかと問題提起している。
日本では、複数の業界レポートが「数十億円から数百億円規模の大型ラウンドが見られた一方、アーリー段階の中央値はむしろ抑制的だった」と指摘する。AIインフラ系や産業特化AIに大型資金が集まる一方で、SaaSやD2Cのアーリー案件はバリュエーションの天井が下がる、という非対称が起きている。同じ「シリーズA」でも、テーマによって投資家が提示する評価額の幅が大きく変わるのが2026年の特徴である。
もう一つの事例は事業会社の動きだ。トヨタやソフトバンク、リクルート系などのCVCがAIインフラ・ロボティクス領域に集中的にチェックを切り、自社事業との連携を前提に高い評価額を許容する場面が増えている。純粋な財務リターンを追うVCと、事業シナジーを織り込めるCVCで、同じシード企業に対する見立てがずれる。これも相場のばらつきを増幅させている。
一方で、創業初期にAIラベルを掲げただけで評価額を吊り上げた企業の一部は、シリーズAに進む段階で大幅なバリュエーション調整を迫られている。米国でも2026年に入ってからAI関連のダウンラウンドが目立ち始め、ピーク時の3〜5割引の評価で次ラウンドを受け入れる事例が散発的に報じられている。シード時の派手な数字は、その後の希薄化や条件交渉でツケが回りやすい、という当然の力学が改めて確認されつつある。
学生・若手にとっての示唆
学生起業や卒業後すぐの起業を考える場合、ニュースに出るような大型シードは「同じシード」ではない別ジャンルの取引だと割り切ったほうがよい。普通のシードの水準は依然として評価額1〜5億円・調達数千万円のレンジであり、最初に組むVCの数、希薄化、議決権設計のほうがバリュエーションそのものより効いてくる。
また、就職してスタートアップで働く側に立つ場合も、バリュエーションの数字に惑わされない目を持ちたい。評価額が高いほど、その後のラウンドで「上を取り続ける」プレッシャーが強くなり、シリーズB〜Cでのダウンラウンドや、ストックオプションの実質価値の毀損リスクが上がる。給与・SO・成長機会の三点を切り分けて見れば、ニュースの派手さに左右されずキャリア判断ができる。直近の調達額と直前のラウンド評価、そしてバーンレート(月次の現金消費)を質問できれば、その会社のリスク輪郭は意外と早く見える。
2026年のシード市場は、一本のグラフでは語れない。AIの一部に集中する巨額マネーと、それ以外の領域で進む選別投資が同時並行で走り、シードという同じ言葉の中に複数の現実が同居している。起業する側も働く側も、自分が向き合っている案件がどちらの世界に属しているのかを冷静に見極めることが、次の一年の意思決定の質を左右する。派手な数字の裏にある、もう一つのシードの現実を見落とさないでおきたい。相場という言葉自体が、いまや一つの平均値では足りないことに自覚的でありたい。