2026年4月、三菱商事のエネルギー部門で7年勤めた32歳の女性が、シードラウンドを終えたばかりのSaaSスタートアップにCFO候補として移籍した、というニュースがLinkedIn上で静かに話題になった。年収は一時的に下がったが、ストックオプションを含めれば数年後の期待値は商社時代を上回る。こうした転職は数年前なら「変わり者」と見られていたが、いまや慶應出身の若手キャリア層では珍しい話ではない。むしろ、大手在籍8年目前後の人材がスタートアップに動く流れは2026年に入ってから一段と太くなっている。
現状:転職市場の構造が変わった
リクルートが2026年3月に公表した転職動向調査では、転職決定者のうちスタートアップ(従業員300名未満かつ設立10年以内)への移籍が占める比率は18.2%となり、2023年同期の11.4%から3年連続で上昇した。とくに30〜35歳の層では22%を超え、商社・金融・大手IT・コンサルからの流入が目立つ。20代前半に大企業へ入り、5〜8年で初めての本格的な転職を行う「第二の意思決定」の選択肢として、スタートアップが完全に定着した格好だ。
金額面でも変化がある。INITIALの集計によれば、シリーズB以降の国内スタートアップが提示する執行役員クラスの基本年収は2024年比で18%上昇し、1,400万〜1,800万円のレンジに収れんしてきた。これに加え、ストックオプションが時価評価で年収相当の0.5〜1倍程度乗るケースが標準となっている。「大手の方が安泰で稼げる」という前提は、ポジションと会社のステージ次第ではすでに崩れている。
動いているのは特定の役割に偏る。プロダクトマネージャー、ファイナンス/コーポレート、エンタープライズセールス、人事責任者の四領域が中心で、いずれも「大手で型を覚え、スタートアップで適用する」という流れが成立しやすい職種だ。逆にエンジニアの大企業→スタートアップは2024年でピークを打ち、2026年はやや落ち着いている。一定規模に達したスタートアップが内製エンジニア組織をすでに作り終え、追加採用が新卒・中堅クラス中心に切り替わったことが背景にある。
もう一つ見落とせないのが、外資系コンサル出身者の流入である。マッキンゼー、BCG、ベイン、デロイトといったファームから、上場準備期のスタートアップへ事業企画/経営企画ポジションで移る動きは2025年後半から増えた。コンサル側がエクイティ報酬の魅力に追いつけていないため、シニアマネージャー手前で動く20代後半が目立つ。VC各社が公表する2026年Q1のサーチファーム経由採用データでも、コンサル出身者比率が前年比で7ポイント上昇している。
背景:なぜ「いま」動いているのか
背景の一つは、大企業側の人事制度がジョブ型へと移行し、社内における「次のキャリアの絵」が見えづらくなったことにある。三菱商事や三井物産は2024〜2025年にかけて若手の昇格運用を見直し、評価のばらつきが拡大した。社内競争のルールが変わると、相対的に外部市場で評価される自分の市場価値を確認したい人が増える。これが転職活動のトリガーになっている。
二つ目は、スタートアップ側の「採れる体力」がついてきたことだ。2025年の国内スタートアップ調達総額は約9,000億円と過去最高水準を維持し、シリーズB以降の中堅スタートアップは経営層採用に年1〜2億円規模の予算を割けるようになった。エージェント側もALL STAR SAAS FUNDやANRIなどVCと連携した「経営層特化」の窓口を整え、職務記述書も大企業出身者が読み取れる粒度に進化している。
三つ目はライフプランの変化である。共働き世帯比率が7割を超え、住宅ローンの返済設計を「キャッシュ+エクイティ」の組み合わせで行う家庭が増えた。配偶者の収入が安定していれば、3〜5年のレンジで上場やM&Aを狙うスタートアップに賭ける選択は、家計全体としては必ずしもハイリスクではない。20代後半〜30代前半に動く理由はここにもある。
事例:具体的にどんな人が動いたか
リクルート出身者の動きはここ1年で一段と顕著だ。HR領域のSmartHRやLayerXのビジネス開発、営業企画ポジションには、リクルートのHRソリューション営業出身者が継続的に流入している。リクルート社内の「事業開発訓練」を受けた30代前半が、スタートアップで部長〜執行役員クラスに上がる典型的な経路ができあがった。
サイバーエージェントは、若くして子会社経営を任せる文化のため、20代後半でPL責任を持った経験者を多数輩出している。2026年に上場したスポーツテック系のスタートアップでは、CFOがサイバーエージェント子会社の元代表、CTOが楽天グループのEC基盤チーム出身という構成だった。両者とも在籍8年前後で動いており、「子会社社長」「グループの巨大基盤の運用」という大企業ならではの経験を、そのままスタートアップに持ち込んでいる。
商社からの流れも厚い。三菱商事のエネルギー・素材部門出身者は、気候テック領域のスタートアップ——たとえばWOTAやアスエネ、ヘリオスエネルギーの事業開発、海外展開、政府渉外といったロールに動いている。商社で培った大型案件の組成スキルとスタートアップのスピードを掛け合わせる発想で、双方にメリットがある形が標準化しつつある。
金融からの動きにも触れておきたい。野村證券や三菱UFJ銀行のIB/法人営業からスタートアップCFOへの移籍は、上場準備期のフェーズで特に増えており、2025年に主幹事ベースで上場した約80社のうち、4分の1以上が金融機関出身のCFOを抱えていた。VC側からも、CFO人材の早期確保がバリュエーションに直結するという認識が広がっており、シリーズB前後でCFOサーチを始める動きが標準化している。
学生・若手にとっての示唆
新卒で大企業に入るか、スタートアップに入るかという二者択一は、いまの転職市場の現実から見ると正しい問いではない。実際に動いている多くは、5〜8年の大手キャリアを土台にした「2社目」での移籍だからだ。新卒で入る会社は、特定の領域で標準的な型を学べるかどうか、そして30歳前後で自分の市場価値が外に通用する状態を作れるかで選ぶ方が、その後のキャリア全体としては合理的になる。
とはいえ、新卒からスタートアップに飛び込む選択肢が悪いわけではない。サイバーエージェントのように20代で経営の場数を踏める大企業もあり、シリーズB以降で組織体制が整ったスタートアップにはオンボーディングの仕組みもある。重要なのは、配属ガチャやネームバリューに身を委ねるのではなく、3年後・5年後に自分が獲得しているスキルセットを逆算して最初の所属先を決めることだ。学生のうちにOB訪問やインターンを通じて、現場の動きを自分の目で確かめておく価値は大きい。
大企業からスタートアップへの流動性は、もはや一時的なブームではなく、日本の労働市場の構造として定着しつつある。注目すべきは、移籍した人材がやがて独立したり、別のスタートアップを創業したりして、人材循環がエコシステム全体を太くしている点だ。次の10年、慶應から大手に入った人材が30代でスタートアップ経営層、40代で起業、というキャリアパターンはより一般的になる。いま大学にいる側として大事なのは、「最初の会社」より「最初の10年」をどう設計するかである。